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貴方は知っている?“教育格差”を正確に理解するための3つの視点

2023年1月6日 9:24:27

インテリアデザイン

前回、下のいずれかを深堀りすると言って締めくくりました。

  1. 教育の質を測る“ものさし”とは何か

  2. 教育の定義通りに教育をしている“教師役による教育”についての格差なのか

  3. なぜ“質の高い教育”/“質の低い教育”の差異が問題視されているのか

著:mrmt.


(前回はコチラ↓)


1と2は相互に関係しそうな話です。


1と2を調べてから3を調べてみましょう。


まずは方策を立てます。


1. 教育の質を測る“ものさし”とは何か


そもそも、教育の“質”と書いてはいますが、“量”についてはどうなのでしょうか?“質”もそうですが、教育の“量”を実際に測ることは難しいでしょう。


“時間”をもって“教育の量”とするのか?

“課題量”をもって“教育の量”とするのか?

けれども、その量をこなしたところでそれが優劣につながるのか?

“課題量/時間”をもって教育の量とするのか?(それはもはや質ではないか?)


現状の、“教育のものさし”はどうやら“質”、“量”の問題を解消しているようです。“格差”が生じているのですから、“ものさし”として機能しているのでしょう。その良し悪しは置いといて。


けれども、ここでは現状解消できなさそうなので、“質”や“量”という言葉を使わないようにします。


なので今後は、“質の高い教育”/“質の低い教育”ではなく“優れた教育”/“劣った教育”として話を進めていきましょう。


「教育の差異を格差と呼ぶのは、優れた教育は劣った教育よりも望ましいというふうに、そこに優劣の序列を想定している」

…ということですね。


ここで、優劣がつけられている≒“教育格差”がいわれているところの“教育”は本当に“教育”なのでしょうか?


これは「2. 教育の定義通りに教育をしている“教師役による教育”についての格差なのか」についての話ですね。


前回紹介した“教育の定義”を引きます。

教師役の個体Aが、自分のためだけにならばやらない特別な行動を、自分のメリットには直接ならないにもかかわらず、わざわざ未熟な他者(個体B)の学習(知識獲得)のために行い、それによって個体Bの学習が成立するとき、その行動を教育として定義しているのです。

安藤寿康(2018)『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』 講談社. p.73

“積極的教示行動”についての引用元:

Caro, T. M., & Hauser, M. D. (1992). Is there teaching in nonhuman animals?. The Quarterly review of biology, 67(2), 151–174.



自分のメリットには直接ならないにもかかわらず、他者の学習を成立させている教師役がいれば“教育”となり、自分がメリットを直接受けたいために、他者の学習を成立させている教師役がいればそれは“自らのメリットのために教師役が成立させる学習”というように、区別がされるはずです。


とりあえずここでは後者は“教育”ではないとします。

(先生はお給料をもらっているから、直接メリットをうけているのでは…?学校教育は教育じゃないの…?と思う方もいるかもしれませんが、これについては次回以降に回しましょう。今回は「学校教育は教育」かどうかわからない姿勢でいてください)


“学習”という言葉は定義の中でも使われているので、言葉のあてはめ方は間違いではないはずです。


つまりは後者(“自らのメリットのために教師役が成立させる学習”)の格差が生じていた場合、“教育格差”は“学習格差”といってもおかしくはないでしょう。


ただし、ここでいう“学習”とは“自らのメリットのために教師役が成立させる学習”のことに限ります。


“教育”と“自らのメリットのために教師役が成立させる学習”はちゃんと分けておきましょう。どちらになるかによって、この格差の性質や、この格差に向き合う者の意識や見方が変わる可能性があるためです。


“教育格差”は“学習格差”であるかについては、“教師役”たちの教師になった理由などを調べれば、なんとかなりそうです。


ですがその前に、そもそも何をもって“直接”・“間接”とするのかというところもハッキリさせる必要がありますね。


さて、話を戻します。


教育(学習)の優劣はどう決まっているのか?


普通に考えて、欲されているものが優れているものと考えられます。


保護者や子が「どういった教育(教師役が成立させる学習)を欲しているか」についてはアンケートなどから調べることができるでしょう。


そもそもしたくない、受けられるかどうかを気にしていない人たちもいると思います。けれども、一旦そういった人の層は考えないで話を進めます。


なぜなら、そのような層に属する人は格差の是正を訴えないはずだからです。

(少なくとも教育(学習)格差、の段階では)


仮にこういった層の人々を含めると、教育を受ける(学習する)当事者だけによるものではなく、外部の人間による格差是正の要求など、違った話になっていくでしょう。そのことについても、いずれ調べていきます。



なんとなく調べ物のアテが整理できましたね。

おそらく次回以降から具体的なデータや根拠を示したお話ができると思います。

気合いいれていきましょう。

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